会報誌たくみ

 

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人のつくらないものをつくる。
「苦労に思ったことはない」

クロサワメタル株式会社 代表取締役
黒澤 忠氏(上田市富士山)

プロフィール/●1940年(昭和15年)生まれ、79歳、丸子実業高校農業課程卒

 

「仕事を苦労に思ったことはない。大変なことも、楽しい思い出でしかない」――。独立し、クロサワメタルを立ち上げたときの思い出をそう振り返る。「今もずっと楽しい」と笑顔だ。

 

本社にて


チタンやステンレス、アルミなどの金属を使い、パネルやカーテンウォール、オーダーサッシやモニュメントの製作や、非鉄金属の加工施工などが自社の業務。長野市の博物館などのほか、隈研吾氏から依頼された軽井沢の建築に窓枠や階段などを入れるなど、建築家との仕事にもかかわる。

 

自らの仕事について「既製品にあるようなものはつくりたくない」といい、「人のやらないことを主にやっている」という。「チャレンジしてつくることが楽しい」。一点物をつくり上げる技術とセンスへの思いがそこにはある。経営理念もまた、そうした技術への誇りをのぞかせる「夢実現技術集団」だ。

 

隈研吾氏との仕事では、「完成後、建築雑誌GA ハウスに、社名、自身と現社長の長男の名前を記載していただけた。普通はないこと」だと言う。最初の仕事では見積もり200万円のはずが、要求がエスカレートし、どんどん金額も上がった。「それだけ、本人がやりたいことを形にできる人がいなかったんだろう」。以降はその技術が認められるようになり、掲載記事を示すと、「ならば大丈夫」と技術面ではフリーパス状態になったという。

 

だが、そうなるまでは波乱万丈だった。丸子実業高校(現・丸子修学館)を卒業後、一度は地元の電気関係の会社に就職するも上京。いろいろなところを転々とし、塗装、機械加工などに携わった。新製品を開発する課でさまざまな提案もした。溶接を学び、ステンレスにも触れた。自動車会社にも勤めた。電子研究所で実験装置などにも関わった。そうした経験から多くの知識と技術を吸収したという。父親に呼ばれて帰郷した後はアルミサッシの販売や製作、取り付けの仕事をした。その後、雇われ社長をし、責任を負わされて強制退社させられることに。そうして独立し、今のクロサワメタルを設立した。

 

強制退社という形ではあったが、退職時の事情を知る人は多く、独立後の援助も多かったという。それゆえスタート当初から仕事は事欠かなかった。仲間として働いてくれる人もいた。「ラッキーだった」といい、経歴のいずれも「無駄になっていない」と話す。「苦しいなんて思ったことはない」と笑いながら振り返る。


10年前に長男の一彦氏が社長を継いだ。東京でフジテレビに勤めていたが、20年前にクロサワメタルに入社した。まったく異業種からの転身。仕事の受け方も忠氏の「浪花節」から、良い意味での「クール」に移行しているところだという。


自らの仕事について「自分たちの仕事は、お互いに面白がって工夫して、寄ってたかってつくる。そうすると良いものができる」と話す。「名匠会は、自分たちと違う個性、視点の違う人たちが集まる。有り難い」

 

長男で社長の一彦氏( 左) と忠さん

 

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