訃報 宮本忠長名誉会長がご逝去

平成28年2月25日 近親者に見守られ88年の生涯を閉じる

 

宮本忠長名誉会長は、信州名匠会の生みの親であり、育ての親でもあり、信州名匠会にとってなくてはならない存在でした。日本建築学会作品賞を受賞した「長野市立博物館」をはじめ、宮本作品が、技術を持つ職人たちと一緒に仕事をする姿勢に支えられていることに着目した初代信州名匠会会長 村松貞次郎先生のご助言により、長野県内の職人さんを「ものをつくる」という共通項で集めて、お互いに研鑽する場をつくる目的で信州名匠会が生まれました。設立総会は平成5 年4 月、長野市にて開かれました。

以来、会員・顧問のみなさまに支えられ、今年第24 回の通常総会を迎えました。職人を大切に思い、職人と共に全力で作品を生み出した宮本名誉会長。そして、それを慕って集まった職人たち。この絆を大切にして、この会に対して故人が抱いた目的・意義をもう一度肝に銘じ、会員めいめいが協力し合い、活躍できるように、研鑽・精進していきたいと思います。

最後まで信州名匠会の会員(職人)に敬意を払い、真摯に接してくださった宮本名誉会長に感謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

追悼メッセージ

 

建築家 宮本忠長先生の活動の意味とその継承

信州名匠会会長・信州大学工学部 土本 俊和

私が東京で建築を学んでいた1980年代、都心を活動の拠点として全国を股にかけて活躍する建築家が目立っていました。そのような中、1980年代の後半に、小布施町が建築関係の雑誌で紹介され、長野市立博物館が日本建築学会賞を受けました。その後、信州で実際に町や建物を見て、学生の胸に届いたのは、地域に根ざした建築活動がより深い内容を生むに至るということでした。

「地域に根ざした」というこの活動は、小布施のまちづくりのようにより綿密で持続的ないとなみを促す原動力であり、長野市立博物館のようにそれぞれの地域により善く適合した作品を生み出す原動力であったのでしょう。そればかりでなく、この活動は、人々のつながりを地域で育んでいくいとなみであったのです。

縁あって1993年の春に信州大学に赴任してから、建築設計製図第5の授業で、宮本忠長先生の薫陶を直に受ける機会に恵まれました。学生に対するやさしい眼差しから、若い人たちをゆっくりと育んでいこうとする姿勢がうかがわれました。また、その後も縁あって、信州名匠会の活動にも参加する機会に恵まれました。この活動にも、このまなざしと同様のまなざしがありました。

地域に根ざした活動とはいえ、この活動は、地域のみに閉じていたのではなかったのです。全国に、全世界に、メッセージが積極的に投げかけられていました。そのメッセージの核は、建築のよりよい姿が、個人の幸福を約束する、と同時に、みんなの幸福を約束する、というものであった、と理解することができるのではないでしょうか。特に建築に携わる者にとっては、建築のよりよい姿に積極的に関わっていくことが、自己実現への道程であり、自らとみんなの幸福につながる、というものであったと理解することができるのではないでしょうか。

個に根ざし、地域に根ざしながら、広く長く、世界のよりよい姿を見ようとする姿勢は、とりわけ若い人たちのこれからの生き方の指針になることでしょう。

 

 

宮本忠長先生の想いを胸に

信州名匠会 副会長
株式会社降幡建築設計事務所 降幡 廣信

平成28年3月29日、宮本忠長先生のお別れの会は、私の心に深い感銘を残してくださった。その時のことが今も鮮明に心に残って、忘れられません。

それはお別れ会の会場に入って前に進み、惜別の想いで遺影の前に立ち、お顔を見上げるように拝した時の、先生の容姿から受けた印象です。そこには先生の心の気高さがあり、大きな心で先を見つめている鋭い眼差しがありました。
今日、稀な姿で地方に存在している信州名匠会も、先を見通す宮本先生の鋭さから生まれた会だったことを、改めて思い知らされたのでした。

私たちは宮本先生の想いを胸に、信州名匠会を大切に守って参らねばなりません。
合掌

 

 

 

「長野市立博物館」を想う

信州名匠会 副会長・株式会社井内工務店 井内 猛男

長野市立博物館は、長野県長野市小島田町にある長野市立の博物館で、1981年(昭和56年)、今から35年前に開館した。宮本忠長氏が設計したこの建物は、同年の日本建築学会賞作品賞を受賞。また同年、建設省の公共建築百選にも選ばれている。
丸柱に出目地を飾った、型枠工事としては高度な技術を要した建築物として現在に至っている。

ここからの記述内容は、当時、この建物の型枠施工の職長であった故・五十嵐厚生氏より、当時の様子と現代との比較を語っていただいたことを、もとにしている。

五十嵐氏は当時、(株)井内工務店の社員であり、実際に現場の第一線で型枠を施工し、型枠大工を生涯の仕事として成し遂げた。

五十嵐職長曰く、宮本忠長建築設計事務所の方々は職人の話に耳を傾け、その話の中から当初の設計の主旨を補いながら、実際に型になるものに手を入れる職人と共に建物を造っていった。

この時の施工図は、施工図を渡されて読み取れない箇所を質問すると素直に再作成され、設計事務所と「できる・できない」の施工面から打診していただき、実際に手が付けられるように詳細図を提示してくださった。

丸柱に出目地、そして上部の梁の交点については、今でこそCADがあるが、その当時は原寸を描き、設計図や施工図に出てこない寸法を、一つずつ出していったことが、懐かしく思い出される。


出目地についての当時の施工の様子

宮本忠長建築設計事務所の方々は、丸柱に出目地は本当に施工的に可能なのか心配であったようだ。今の設計事務所は、無理難題がわからず、図面ができたのだから施工できるだろうと勘違いをしてしまう、経験不足の設計者が多く、後々の問題が多い。作製した図面に対して施工者側の不具合が想定できない設計者も多いという現実がある。

しかし当時は施工前にかなりの時間をかけて用意周到の上、できるかできないかの検討を続けた。結局、「やろう!」という結論に達したが、やるからにはどのように進めていくか、様々な視点から知恵を出し合った。
結論は、心意気であった。
「出目地。そうか! おもしろいからやろう!」
この意気込みの中、技術の集結に至った。
これこそ設計・施工者・職人の一体化の始まりであった。
35年前のこと、やはり情の中で1つの成果として完成に至ったことは事実である。

そして、当時の型枠大工そのものは造作大工から始まり、型枠も造作もできる大工として「カンナ」を巧みに使い、型枠そして曲げ物の加工ができる力と資質が備わっていたと実感している。

技術面としては、丸柱と出目地に対応するクシ型の加工から始まり、角ぐしにてセパレーターをとらない支保工を完成させた。階高もあり、よろび、通りも精度の確保はかなり厳しかった。

当時は、ラワンの厚いものが入手しやすく、このラワンの使用が治具として役立った。このラワンと厚12㎜のベニヤの仕口取り合い、付き合せ等はカンナを利用して技を尽くした。

 

夢を持ち、その夢を型にする

何もない空間から手解きしていくため、心身一体で汗をかき、体で覚えてこそ、設計から始まり、その意気を感じ、実際に技術が熟していく。
その昔、宮本忠長建築設計事務所の所員の方々は、コンクリートの打設時には一緒に汗を流して作業をしたとお聞きしている。型枠工事は、その「型」は、拾い~加工~現場の建方等、何日もかかって、コンクリート打設のたった一日に命をかける。

造作は造作大工だけで匠(たくみ)を成し遂げていくが、同じ大工でも型枠大工はコンクリート打設という異業種に委ねられることにこわさを感じるところもある。
この打放しの設計は、宮本忠長建築設計事務所の姿として今までも、そしてこれからもさらに卓越していくことと信ずる次第である。

 

 

 

信州名匠会と宮本先生

信州名匠会専務理事・坂田工業株式会社 坂田 守夫

宮本忠長先生から、ある日突然、電話をいただきました。「相談したいことがあるので、会いたい」とのこと。さっそく、先生の事務所にお伺いしました。

ご用件は、「匠(たくみ)の会をつくりたい」というものでした。「匠の技術を、今後とも育てていきたい。そのための組織をつくりたい」と、非常に気迫に満ちた言葉でおっしゃいました。
「たいへんな話だな」と内心思いました。と同時に「本当に出来るのかな」との想いが、頭の中をよぎりました。私は先生に、すこし時間をいただきたいと考え、「先生、3年待ってください」と頼みました。先生は、ニコニコしながら、「わかった」と言ってくださいました。わたしは、「しめしめ。先生はそのうちにお忘れになるだろう」と安心して、事務所を出ました。そのままわたしは、お約束したことを忘れていました。

3年が過ぎたころ、宮本先生からまた電話をいただきました。先生の記憶力の良さと、「どうしても名匠の会をつくる」という執念を感じました。わたしは、「もう、会を立ち上げるしかない」と感じ、「まな板の鯉」の心境になったのを覚えております。

「幅広くいろいろな業種の人たちを集めて会をつくろう」と、先生と話しました。「会長は誰にしよう。顧問は誰々に・・・」。先生は、組織をすべて網羅しているように、スラスラとお話しくださいました。お名前は存じていても、お目にかかったことのない方々でした。何回か打ち合わせをする中で、当時、先生の事務所にいらした溝端利一さんにも人選や準備に加わっていただくことになりました。

長野県全体を見渡して、どこかの地域に片寄ることなく、多くの匠を集めるのは、たいへんな苦労でした。「絶対に、匠の会をつくる」という宮本先生の強い意志が、全国で初めての「名匠会」を信州に誕生させてのだと思います。
会が発足してから20数年を経ています。これからも宮本先生の意志を継いで、今まで以上に、「信州名匠会」を発展させていくことが、わたしたちの使命であると思います。みなさん、これからも末永く、がんばりましょう。

 

 

宮本先生追悼文

信州名匠会理事・有限会社エヌ設計 西澤 嘉雄

恩師、宮本先生の突然の訃報に、寂しさが込み上げる日でありました。

私が事務所に入社したのは、昭和47年、長野ダイヤモンドビルからです。隣地に長野市役所・市民会館があり、この9階建てビルも先生の作品。感激でいっぱいの職場環境でした。
事務所は公共建築の仕事が多く、先生のチェックが入った先輩の手書き図面を、丁寧に、かつ、先輩の癖に合せて訂正をする。消しゴムと鉛筆との格闘の日々。残業、徹夜の毎日。昼は現場、夜は図面描き、体力勝負そのものでした。

先生との会話はいつも所長車の運転中です。力強い励ましの言葉をいただき、そのおかげで、今日の自分の「建築の道」が築かれたのだと思います。

入社から10年が過ぎたころ、長野市立博物館が完成し、小布施の町並み修景事業も進み、所員も30名に増えました。事務所は、リンゴ畑の広がる郊外地の柳原に移り、思いもよらぬ環境の変化となりました。

先生は、緑薫る大地に草のように強く根を張り、建築を学ぶ、生きる舎であれと、「緑りょくそう艸舎」と命名されました。

社屋建設の計画は、雪深い飯山で由緒ある川口家(築100年以上)移築であり、アトリエとしてどう組み合わせ再利用するか、思考・打合せを重ね、1階事務所を高基礎に見せ、2階を古民家で覆い、地域の原風景にと発想されました。
解体してみないとわからない部分が多数あり、内心不安の中、作業を進めましたが、見事に解体でき、使えるものと使えないものを綿密に調べ上げ、1階の工事と共に加工に入りました。上棟時には、先生のイメージが形となり、善光寺平の山並みに調和し見事な原風景の建ち上げとなりました。
木部の洗い・塗壁・建具補修に入ると、木部が光り輝き、日本文化の空間美が見事に生き返り、さらなる寿命を得ることができ、緑艸舎は竣工しました。
これも設計者と職人の真剣なものづくり魂があってこそと、先生は完成の喜びを表しました。こうした職人の技・職人の輪の存在意義を、さらに確かなものとして継承しようと、先生は平成5年に「信州名匠会」と立ち上げました。

その後も、広島で中村外二棟梁と造り上げた「騰々亭」、熊本の木をピラミッド型に美しく組み上げた「物産館」、上越の吉田五十八設計「小林古径邸復原」、「坂城まちづくり」と、先生に叱られ叱られ築き上げ、ものづくりの基礎を一から学び、貴重な経験が強い自信につながり、独立後も宮本哲学を継承いたしております。
長年のご指導に感謝し、謹んで宮本先生のご冥福をお祈り申し上げます。

合掌

 

 

先生との出会いと教え

信州名匠会理事・建築工房アカシヤ 堀 誠

私が初めて宮本先生とお会いしたのは、平成5年4月26日の信州名匠会設立総会でした。
宮本先生をはじめ、村松貞次郎先生、降幡廣信先生、池田三四郎先生をはじめ、そうそうたる先生方を前に緊張を覚えたこと、そして宮本先生からお声をかけていただいたことを、昨日のことように思い出します。当日のご挨拶の中で宮本先生は、信州独自の建築技術の伝承・後継者の育成について穏やかな口調で語られました。私も大工として、名匠会を通じ修学を重ねたいと改めて感じました。

平成5年の秋、「和風建築探求の旅」を先生とご一緒したことは今でも心に深く残ります。先生と降幡先生のお二人のご案内で、園城寺、西教寺、西本願寺の飛雲閣、松下真々庵、曼殊院の八窓軒茶室を見学しました。また、数奇屋建築の中村外二棟梁の手がけた建物や棟梁の工作場へも案内していただきました。行く先々で精力的に見聞され、そして説明される先生がとても印象的で、大変貴重で有意義な旅行でした。

毎月、緑艸舎の2階で行われる例会では、先生のお話を拝聴できることが楽しみで、出席を続けてまいりました。先生の仕事に対する姿勢、取り分けて先生が職人衆の話を聴かれるときの姿勢が、ひとつの建物すべてに目が行き届く名棟梁のように、私には映りました。

個人的にうなぎ店にお招きした際に、仕事から離れた先生のお人柄に触れながらゆっくりお話しできたこと、それはまさしく最高の至福の時間に思えたものです。向き合っていただいたそのひとつひとつが、先生からの教えとして私の内に残ります。
宮本先生のご冥福を心よりお祈りいたします。   
合掌

 

 

宮本忠長名誉会長を偲んで

信州名匠事務局長・宮本忠長建築設計事務所 西澤 広智

宮本名誉会長はここ約5年間、信州名匠会の研修会・通常総会に直接出席することはできませんでした。事務所所員以外とはあまり会いたがらなかったのですが、信州名匠会の理事会や研修会でのテレビ電話には対応してくださいました。そして、私に「みなさん、がんばっているようだね」「みなさんによろしく」と、いつもおっしゃっていました。

昨年の12月末まで所員との打ち合わせを行い、生涯現役を貫かれました。年末から体調をくずし、2月、私がお見舞いに行く予定の前の日に、家族に見守られる中、安らかに永久の眠りにつかれました。

宮本名誉会長はいつも、「我々は全国区でいなければいけない」とおっしゃっていました。

私は幸運にも、宮本名誉会長のライフワークとなった、小布施の町づくりの仕事の担当者として、長年にわたり関わらせていただきました。地域の気候・風土・歴史・文化を読み取り、向こう三間両隣の関係性を考え、建物が主役ではなく「間の空間」環境が主役ということを教えられ、社会にも発信し続けました。

地方都市に本籍地を置きながら、これだけ全国に影響力のあった建築家はいないでしょう。我々の誇りです。その宮本名誉会長と仕事を共に出来、いろいろな経験をさせていただいたことに、心から感謝いたします。
心より冥福をお祈り申し上げます。

 

 

宮本忠長名誉会長プロフィール

 

◎略歴
 昭和02年 長野県須坂市に生まれる(本籍/長野県須坂市大字須坂529番地)
 昭和26年 早稲田大学 理工学部建築学科(工業経営)卒業<旧制>
 昭和26年 早稲田大学教授 建築家 佐藤武夫設計事務所 入所(14年間勤務)
 昭和34年 一級建築士資格取得(第29154号)
 昭和39年 宮本忠長建築設計事務所 設立
 昭和41年 株式会社 宮本忠長建築設計事務所(長野市)と改組、代表取締役所長に就任
 平成02年 小布施町景観デザイン委員会 委員長
 平成08年 長野市都市景観審議会 副会長
 平成14年 社団法人 日本建築士会連合会 会長(~平成20年、〜名誉会長)
 平成14年 社団法人 日本建築家協会 名誉会員
 平成19年 社団法人 日本建築学会 名誉会員
 平成22年 代表取締役会長に就任

◎表彰等
 平成03年 建設大臣表彰(建設事業関係功労)
 平成04年 長野県知事表彰(産業功労)
 平成05年 黄綬褒章 受章(建設振興功労)
 平成15年 長野市功労表彰
 平成16年 第60回 日本芸術院賞 受賞(松本市美術館の設計)
 平成16年 平成16年度 第11回 信毎賞
 平成16年 旭日中綬章 受章(建築設計監理業振興功労)
 平成28年 叙位正五位

◎著書
 昭和55年 「寒冷地の工法」 井上書院
 平成03年 「住まいの十二か月」 彰国社
 平成15年 「森の美術館」(村井修氏と共著) 中央公論事業出版

 

◎主要作品

<作品名> <所在地> <受賞歴>
長野市立博物館 長野県長野市
  • 昭和56年度 日本建築学会賞 第二部(作品)
  • 建設省公共建築百選 入賞 他
  • 日本建築家協会 JIA25年賞
小布施町並修景計画 長野県上高井郡
小布施町
  • 第12回 吉田五十八賞
    建築部門 佳作
小布施まちづくり整備計画 長野県上高井郡
小布施町
  • 第32回 毎日芸術賞、
    第11回信毎賞 他
  • 2006年土木学会 景観・
    デザイン賞 最優秀賞
騰々亭(広島銀行迎賓館) 広島県佐伯郡
大野町
 
信州高遠美術館 長野県伊那市
  • 第6回 公共建築賞 優秀賞
ケアポートみまき 長野県東御市
  • 日本医療福祉建築賞1996
森鴎外記念館 島根県鹿足郡
津和野町
  • 第3回 しまね景観賞 一般建築物部門優秀賞
  • 建設省公共建築百選 入賞
国民宿舎
サンライズ九十九里
千葉県山武郡
九十九里町
 
北九州市立松本清張
記念館
福岡県北九州市
  • 第41回 財団法人 建築業協会賞
小林古径邸復原事業 新潟県上越市  
松本市美術館 長野県松本市
  • 第44回 財団法人 建築業協会賞
  • 第60回 日本芸術院賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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