会報誌たくみ

 

平成23年度通常総会 記念講演会「歴史から学ぶ」

 

◆慣習法が生きている国
水も同様です。
水の所有権というものを日本は伝統的に認めていませんし、いまも認められていません。
最近、外国人が日本の山を買ったというので、慌てふためいてシンポジウムなんかを開いていますが、歴史をちゃんと勉強してください。日本の場合は、水の所有権は認めていません。利用権だけです。
もう一度、過去にならって、水についてどう考えたらいいか議論しなくてはいけないというのに、日本人の嫌な癖は、たまたま中国人が買い始めたとか、外国人が買ったというと、蜂の巣をつついたように議論をする。もっと冷静に過去を振り返ってみましょう。
いつ日本人が水の所有権を認めたか、過去700年の歴史にはありません。

 

どれほど、法律は万能ですということが、戦後の世の中を毒してきたか。法律学者は反省し、日本は成文法一種類ではない。慣習法が生きている国なんだということをアピールする必要があります。
だからこそ、地震や災害があっても日本人は行儀がいいのです。法律の問題ではないのです。
そうすることで、自分はもちろん、孫や子どもたちも生きやすい社会なのだと、自信をもって世界に訴えていかなければいけない。そんな風に思うわけであります。

 

霞ヶ関の役人と話していると、悲しくなるくらい、彼らの言う歴史は明治22年から出発していることが分かります。それ以前は、歴史じゃないと思っているのではないでしょうか。
彼らは頭が良いだけに、もう一度、こういう教育をし直してほしいと思うわけです。

 

◆求められるインテリジェンス
最後に皆さんに申し上げたいことが一つあります。枝野幸男官房長官のことです。
地震が起こってから、彼は昼夜なく、いろんな状況を発表してきました。
地震が起こって一ヶ月間、日本人は、枝野さんは偉いなと思っていたのではないでしょうか。
菅さんは寝てるかどうか分からないけれども、枝野さんは夜も昼もなく真面目にやってるぞと。

 

三月の末にインターネット上で、「大丈夫?」というと、「大丈夫」。「漏れてない?」というと、「漏れてない」。「でも少し漏れてるんじゃない?」というと、「少し漏れてる」。「こだまですか?」「いいえ枝野です」という戯れ言が流れていました。日本人特有のユーモアです。
枝野さんがあれだけ一ヶ月間、日本人の支持を受けながら、しかし、諸外国、特に欧米に関しては、四日目ぐらいから「枝野は何を言っているのだ」という疑問、そのうちに怒りの声が上がったという事実があります。
日本人からすると、え?どうして?枝野さんは真面目にやっているのにというところです。

 

彼の何がいけなかったのか。
「情報」と我々は一言で言いますが、データがあって、数字や名詞がある。そのデータを組み合わせてインフォメーションができあがります。
これを情報と言う場合が多いのですが、実はこのインフォメーションを組み合わせることで、最終的にインテリジェンスという、情報の中でも一番上位に属するものになります。
ところが、日本人は情報をインテリジェンスにする教育を受けていませんし、普段もやり慣れていません。
国会答弁でも、インテリジェンス抜きの、データとインフォメーションだけで、「お前、あのときこう言った」とか、「こう言ったときと、いまは違うんじゃないか」と、こういう議論だけをやっています。

 

ところが、このインフォメーションとデータというのは、たとえば、インフォメーションが100個あって、データは1万個あったとすると、100のインフォメーションのうち30のインフォメーションだけ発表していれば、ウソは言っていないけれども、実は7割は伏せてある。
このやり方に我々はあまりにも慣れ過ぎています。
諸外国が4日目から怒るのは、インテリジェンスになっていないということです。
「1号炉はこうだ」という話しかしない、トータルで原発はどうなっているのか、安全度のパーセンテージでもいい、結論を言えと。
これが海外の苛立ちなのです。

 

もう一度、我々はインフォメーションを培うような真似は止めて、データだけを論じるのは止めて、インテリジェンスとして論議を戦わす、そういう国会の場でなくてはいけないし、ひょっとすると、会社の内部の会議もそうかもしれません。
そういう時代に来ているのではないかと、そんな気がするのです。
そういう意味で言うと、やっぱり、江戸時代の方が、インテリジェンスの戦わせ方はあっても、インフォメーションとデータをぶつけあって、「それは違う」「嘘を言った」というようなことはなかったという気がしてきます。
ですから、江戸時代は幕末の本当の交友関係を見ていくと、教科書に書いてあるような、片方は薩長で、片方は佐幕で、互いがいがみ合ってということはなく、インテリジェンスの交換をやることによって、いまの自分の立場は関係なく、人間としてどの程度、評価できるか、というもう一つの尺度があって、歴史の人々の交わりや争いはあった。そんな気がしてならないわけです。

 

最後は抽象的な話になってしまいましたが、
小布施の町並み修景という一つの建築、ハードのことが出発点ではありましたけれども、それに付随して、地形であるとか歴史であるとか、あるいは情報の在り方とか、そんな中で幅広く必要性に駆られて学ばなければならなかった。そういう意味では、若い時代に良い勉強ができたと、そう思っているわけです。

 

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