会報誌たくみ

 

平成23年度通常総会 記念講演会

「歴史から学ぶ」 

師/市村次夫氏

㈱桝一市村酒造場、㈱小布施堂代表取締役
現在、財団法人北斎館理事、信州名匠会顧問
1998年 日本建築学会の文化賞受賞。
2005年 デザイン・エクセレント・カンパニー賞受賞

 
◆村松貞次郎先生の思い出
信州名匠会の発足は村松貞次郎先生のご助言だったように思います。
発足当時は先生もよくお出になって、一度、村松先生をご案内して、小布施をいろいろ見て回りました。
そのとき、村松先生から宮本忠長設計事務所の久保さんと私が大いに怒られたことがあります。

高井鴻山記念館というのがございます。
その裏門は、現在、漆喰になっていますが、実は土壁、砂壁で、窓枠だけが漆喰だったのです。
どの地域でも建築に対するコードみたいなものがありますが、小布施にもありました。
一番グレードの高い建物は全部漆喰。その次が砂壁に窓枠だけ漆喰です。さらに粗末な建物になると全部砂壁。さらに粗末になれば粗壁。
こういう昔からのコードがあったのです。

 

ところが、当時の町長は、その辺が全然分からなかった。
一般公開するにあたって、解体修理をやったのはいいのですが、窓枠だけ漆喰だった建物を「全部漆喰にしろ」と言われました。
しかも、下見板は窓の辺りまできている非常に特徴的な高い下見板だったものを、ごく一般的な高さに抑えてしまった。色も黒だったものを、焦げ茶色にしました。

 

我々も若造で、町に文句を言える立場ではありませんでしたから、内心、忸怩たるものがあったのですが、ずばり、村松先生にその辺を指摘されました。
「まったく、この構造にこの漆喰はおかしいだろ。こんな恥ずかしいことなぜやるんだ」と大きく怒られました。
この先生はやっぱり当てになる。信頼のできる先生だなと、いまでも思い出されるわけです。

 

◆昭和40年代の都市計画
昭和40年代の都市計画法というのは、不備が多く、基本的な考え方がまずかった。
市街地というのは、西欧では、町の周囲を城壁で囲んでいまして、町と村のメリハリがあります。
しかし、日本にはそれがない。
しかも、日本では合併を繰り返してきたので、一つの行政区画の中に市街地が複数あることもあります。そういう中でのあの法律ですから、思想統一が取れていませんでした。
加えて実用的な部分は主として不動産業のフィールドで、運用も不動産業的になってしまった。

 

都市計画法の制定の歴史をたどると、農地法と都市計画法が並置された形でつくられています。
農業の担い手が少なくなってきて、農家自身も農地を売りたい。そのような気持ちを抱いて数十年が経ち、いろいろな矛盾を抱えていたわけです。
法改正以前に、都市計画法とはどういう法律か考え直さないといけない時期でした。ですから、県の都市計画審議会長を務めたときには、その職にありながらも、内心つまらない法律だなと感じていたわけです。

 

一方、そういう職にあったために、いろいろ忸怩たる思いがあった数年間でもありました。
小布施町は昭和48年に都市計画法を導入しましたが、有名な観光地である安曇野などはいまも指定がなされていません。安曇野の航空写真を、50年前、30年前、20年前、10年前と見ていくと、やっぱり乱開発が進んでいます。
都市計画法には眺望という概念がありません。眺望という概念がようやく入り始めたのは7~8年前です。
松本市は松本城の周辺で高さ制限をやりましたが、あの高さ制限も多分に不動産屋的な発想で、眺望という概念で規制していくことが必要な時期にきています。
松本のように町の真ん中にランドマークとなるお城があるところは、特にそれを導入してかなくてはいけません。

 

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