会報誌たくみ

 

平成24年度 7月 研修会
旭日双光章(25年春の叙勲)の出澤潔さん語る

「私の独り言」 

講演/出澤 潔 氏


 

○藝大時代の思い出
○吉田五十八、吉村順三氏らに学ぶ


皆さんのおかげであのような勲章をいただくことが出来た事に感謝。今日は私の独り言、ということで話してみたい。


なぜ建築の道に進んだのかと今度の授章をきっかけに度々聞かれたが、実はまったく深い理由はなくて、勉強がそこそこできて多少絵が描ける人間ならば藝大というところがあると叔父に聞かされて行ったという、非常に不真面目ないきさつで恥ずかしい。


当時、佐久では建築の設計なんて一般の人にはあまり知られていなかったのでは。藝大に受かった時、高校の同級生から「建築って何やるんだ、大工さんの修行でもするのかい」と言われたほど。昭和30年ごろ、そんな世の中で育ったように思う。


(藝大の)同級生は15人。先生は吉田五十八先生、岡田捷五郎先生、吉村順三先生、山本学治先生ら。吉村先生は助教授だった。
歓迎式では、「今年の新入生はたいしたのがいないね」と吉田先生に言われたが、わたしたちの仲間で2人(後に)建築学会賞を受けた。


ちょうど吉村先生がアメリカで仕事をやられていた時代で、学校での授業は少なかったが先生の建築概論の講義は記憶に残っている。吉村先生の言われたことの中で特に印象に残っている言葉は、「いま君たちが考えていることは必ず50歳、60歳になっても考えることだから、いま一生懸命考えなさい」。今その事を思い出すと、当時考えていたことを、今でも時々考えている事があり、自分自身あまり進歩していないのかなと思う。

 

○建築全体を学びたい
○藝大から大林組へ


同級生の殆どは設計事務所に行ったが、私は、設計事務所ではなく施工会社に行った。藝大の先輩が大林組にいて、よく面倒を見てもらった先輩がいた。いま考えると非常に生意気なことだが、設計だけでなく建築をつくる全体を知りたいという思いがあり、施工会社(大林組東京支店)に入った。

当時、大林組は非常に居心地のいい会社だった。屋上に増築された鉄板屋根の部屋が設計部だった。夏になると暑くてバケツに水を入れて足を突っ込んで図面を描いていた先輩を思い出す。開け放した窓から図面がヒラヒラ舞い落ちて事務所の前のお堀に落ちていくのを皆で窓から見ていた事なども思い出す。
今思い出すととてものどかな時代だったように思える。社長も時々部屋に来て、我々のようなものにも声をかけてくれたりした。先輩たちには本当にいい勉強をさせてもらったように思う。


若い頃は本当に生意気な厭な奴だったのだろうと思う。上司にストレートにものを言い先輩から注意をされたりした。いまは違うだろうけれど、当時は現場と設計部は、あまり仲良くなかったように思う。先輩が現場とやりあっているのをよく見聞きした。ある意味、純粋に建築のことを考えている先輩たちがいた。そういった環境が私を育ててくれたように思う。

1975年ごろ、大林組は大きな機構改革を行い東京本社ができた。それまでの和やかな雰囲気が組織としてピシッとしたものになり、ちょっと居心地が悪くなった。しばらくして私は設計課長になり、その後、設計管理部に移り設計管理課長になった。当時、全国で設計部員が800人ぐらいいたのかも。その設計部員の人事管理と技術の管理、お金の管理(設計部で独立採算をしていたので)をしていた。そうしたことである意味、設計から離れた仕事になった。

 

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